門井慶喜の「銀河鉄道の父」を読んで

門井慶喜の「銀河鉄道の父」を読み終わりました。

宮沢賢治の父から見た長男の賢治が、生き生きと描かれています。

かなり分厚いハードブックでしたが、読み切りました。

明治大正期の少し退屈な筋書きかなと、最初は思っていましたが、一旦読み始めると止まらない、不思議に惹きつけられる小説でした。

主人公は、一見宮沢賢治なのですが、父親の正次郎のようにも取れます。

メインキャストの傍にいつも居て、メインキャストに起きたことを語っていく手法は他の小説でもよく見られるのですが、あたかも読者も父の正次郎の傍らに立って宮沢賢治を見ているような臨場感があります。

空中に浮遊して、主人公を眺めているような感じではなく、主人公の肉親としてあまりに近い父親正次郎の迷いや感情の流れに、知らず知らず読者の感情が同期していきます。

急性肺炎で喀血し、わずか37歳で逝った賢治の臥す死の床の周りに、父母弟妹とともに、読者もまた座し傍観しているように感じられます。

東北岩手の思わず身震いするような雪交じりの風と、暖かい南向きの陽だまりとの対照、現代の生活の中でほとんど失われてしまった、朝に晩に唱名をとなえる仏教への深い信仰と、明治大正期に次第に浸透し生活を変えていく新しい技術の対照が、この物語の背景にあって、その時代の雰囲気を良く伝えています。

全体的に悲惨とか過酷な印象が無いのは、父の正次郎が資産家で、町会議員でもある地方の名士であり、その庇護のもとにある宮沢賢治は生涯病苦を繰り返すにも拘わらず、その生活には貧困の暗さが無いためだと思います。

正次郎は最愛の長男長女を病で失うも、残る次男が新たな業容で独り立ちし、末娘を嫁がせて、次女の子供の小さな2男3女の孫達に囲まれて賢治の童話を語る場面で、最後の章が飾られ物語は終わります。