松永K三蔵「バリ山行(さんこう)」を読んで

 


本作は2024年上期、第171回芥川賞受賞作です。

主人公の波多は、建物の外装修繕が主な業務の従業員50人余りの小さな会社に転職してきました。

妻と小さな娘の3人家族で、会社の社宅扱いの庭付き住宅に住んでいました。

転職前は、準大手の建築会社に勤めていました。

バブル景気後の不景気の時に、営業としてそれなりに実績を上げてきたと自負していましたが、同じ課の10人のうち肩たたきを受けた2人の内の一人となりました。

波多は、かつてアフターファイブの飲み会などの職場付き合いを大事にしてこなかったために失職したのではないかという反省もあって、新しい職場では、最古参の嘱託社員から呼びかけられた山歩きの誘いに参加することにしました。

波多が入社して数年後、会社は社長が、たたき上げの先代から息子に世代交代し、経営方針が大きく変わろうとしていました。

それまで、小口の顧客の仕事を繋いで継続してきた不安定な元受け業務を廃し、大手の下請けに専念して安定的に仕事を確保するよう方針転換をしました。

それもあって、先代から長年会社の経営の一旦を担ってきた取締役が退職することになりました。

取締役は、多くの顧客の受注履歴を、何冊ものノートに記録していて、それをもとに顧客へ営業をかけるタイミングを図り、受注活動を繋げてきました。

波多を一回の面接で採用に導いてくれたのもこの取締役で、豪胆で気さくな性格から、山歩きの会にも毎回よく参加していました。

職場の同僚に、一人で小口の顧客を回り、自分なりの流儀を突き通す一匹狼のような営業社員、妻鹿さんがいました。

職場での付き合いも悪く、同僚に対しても突然切れて激高することもあり、ともすると職場から浮いてしまう妻鹿さんを庇ってくれたのも取締役でした。

取締役の慰労の送別会を兼ねて、最古社員が山行を計画し、皆に呼び掛けると、普段このような会社の催しに参加することのなかった妻鹿さんも途中から加わることになりました。

途中とは、山行ルートの途中の中継地点で合流するということでした。

最古社員は、波多に、妻鹿さんは「バリ」をやると言いますが、波多には何のことやら分かりませんでした。

実際、妻鹿さんは合流地点でイライラしながら待つ長老社員をしり目に、あらぬ方向から突然、姿を現しました。

山行後の送別会では、会社を退く取締役を前にして、周り憚らす涙を流す妻鹿さんは異様とも思えました。

後日、波多は、設計担当の槇さんから、「バリ」とは何かを教えてもらいます。

作中では次のように書かれています。

「バリエーションルート。バリルート。そんな言い方もするという。通常の登山道でない道を行く。破線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道。そういう道やそこを行くことを指すという。」(引用:「バリ山行」本文)

妻鹿さんは周囲とやや隔たりがある人物でしたが、実は毎週末のように山へ行っているようでした。

それも普通の登山とは違い、道なき道を進む「バリ山行」を好んでいました。

取締役が去ってしばらくして、会社の先行きが怪しくなってきました。

計画されていた大手の下請け仕事が、いつまで待っても入ってこなくなり、社内では人員整理のための面接があるとの噂が流れるようになります。

波多は、職場の飲み会に加わり、噂の情報を集めて、ひょっとしたら自分がその対象になっているのではないかと疑心暗鬼になりますが、妻鹿さんが危ないという噂を耳にします。

実際に、妻鹿さんは会社が大手の下請けとして生きていくという方針を決定した後も、これまで通り、以前から付き合いのある小口の顧客とのやりとりを続けていました。

波多は、まだ業務上での知識が未熟で、妻鹿さんから「少しは気を使えよ」と突然起こられることもありました。

しかし、波多は、客先から突き付けられた屋根の水漏れ問題の解決に際し、専門業者や上司の担当課長にも見放されたにも拘わらず、波多が助けを求めた妻鹿さんが、再度現場調査の上、解決方法を直ちに見出し、鮮やかな対処方法にて見事に難題を解決するのを目前にしました。

こうして、波多をどうにもならない危機から救ってくれたことに対する感謝とともに、妻鹿さんが職場で最も秀でた知識と技量を持っていることを認識するようになります。

世間では、妻鹿さんが好むバリ山行に対し、危険で無謀な山行は遭難によって迷惑をかけるとか、自然を踏み荒らし環境保護に反するなどの批判があることを波多は知りました。

しかし、波多は妻鹿さんが、そのようなバリ山行をどうして好むのか次第に興味を持つようになり、ある日仕事の合間に妻鹿さんに同行したいと伝えます。

妻鹿さんは、バリ山行は一人で行くのが良いと言っていましたが、しばらくして同行を応諾してくれました。

この物語は、ここからが本題となります。

バリ山行で、道なき道を進む迫力や臨場感が、読者をぐいぐいと作中へ引き込んでいきます。

山に取りつかれた妻鹿さんの言動が作中にあります。

「な、本物だろ? 波多くん」
本物? 私がその意味を掴みきれずにいると、「この怖さは本物だろ? 本物の危機だよ」と続けて言った。」(引用:「バリ山行」本文)

しかし、波多はこの時は反発を感じました。

波多は、社内の人員整理の噂もあって、「本物の生活は街にある」現実を見ろと妻鹿さんに声を上げます。

気まずい思いをしながら、藪の中を死に物狂いで這い、足を捻りその苦痛に耐え、疲労困憊して、妻と子の待つ家まで辿りついた波多は、翌日肺炎に罹患していることを医師から告げられ、1週間会社を休みます。

体が癒えて、何とか足を引きずりながらも出社した波多は、部長の面談も終わって、波多自身の出処も決しているだろうと覚悟していました。

課長は外出中であったので、部長と社長に自信の不注意により長い休暇となってしまったことへのお詫びのため赴くと、逆に慰労されて驚きました。

帰ってきた課長から、同じ営業で3人が退社したことを知りました。

その中に妻鹿さんがいました。

妻鹿さんは、社長に小さな顧客も残すように直訴したのですが、同席した課長や部長から反論され、部長から、妻鹿さんが上司の許可なく倉庫から補修資材を勝手に持ち出したことを指摘されると、自ら「辞めます」と告げたとのことでした。

社長は思うところがあり、部長に妻鹿さんを慰留するよう説得することを依頼しますが、妻鹿さんはそれを断り、自分の机を整理して会社を出ていきました。

波多は妻鹿さんに謝りたいと思い、何度もなぜを繰り返し煩悶しました。

やがて、波多は、妻鹿さんと登った六甲山系の山々を一人でバリ山行するようになります。