川越宗一の「天地に燦たり」を読んで
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、登場する3人の視点から描かれています。
1人目は島津藩の侍大将として、戦を厭いながらも、戦の中でしか生きられない大野七郎久高です。
2人目は、朝鮮国にあって、最下層の白丁の出身ながら、儒学を修めたいと願う青年の明鐘です。
そして3人目は、倭と言われた日本国や、島津藩に虐げられながらも、「守礼之邦」琉球国を愛し、「誠を尽くす」ことを信条として生きる密偵の真市です。
舞台は九州の大友藩を責める島津藩の戦から始まり、明を攻めるため、朝鮮へ侵略する倭軍の戦、そして秀吉没後、家康が日本国内を平定した後に島津藩が琉球王朝に攻め込む戦が描かれています。
大野久高はいつ果てるともない戦の中にあって、「いつまでこんなことを続けるのか」「どれだけ人を殺し続けなければいけないのか」と煩悶し続けます。
そして主の島津久保に「人を信じればこそ、王は人の王たりえる」と言われます。
李氏朝鮮の最下層の白丁として生まれた明鐘は、倭人が攻めてきた戦に紛れて、自分たち白丁を終生賎民たらしめている帳籍(戸籍簿)を焼きます。
天地万物の存在も運行も、全ては「理」(ことわり)により統べられる。その「理」により人は生来、至善だ。至善にあり続ければ人は「天地ト参ナルベシ」、天地と三つに並び立つ偉大な存在にも至り得ると儒学は述べています。
久高は、「食(は)み合い、争い合い、奪い合う」世にあって、「生きるからには最後まで生を尽くし」、禽獣(きんじゅう)ではなく人として、覇ではなく王に仕えることが、果たしてできるのか、王とは何か、どこに存在するのか、そもそも人とは何なのか、人が往(ゆ)ける先には何があるのかと問い続けます。
武将として強い存在であるはずの大野久高は悩み迷い続け、むしろ弱い立場の朝鮮人である明鐘や、弱小国の琉球人である真市は儒教の教えの元に万石で迷いがありません。
そして自分の出生を隠し、官吏となって、旧態たる李氏朝鮮を根底から覆したいと考えています。
明鐘は人間として生きたいがために儒学を学び、儒者として白丁の聖人になりたいという野望を持ち続けています。
「人は、そのままでは禽や獣と変わらない。食み合い、争い合い、奪い合う。礼を尽くして他者を敬愛して、はじめて人は人となる」という儒教の教えが小説の中で語られています。