上橋菜穂子の「鹿の王」は心優しいファンタジー小説
ヴァンはかつて愛する妻と息子を病で失い、死ぬために独角に加わりました。
戦いに敗れたヴァンは、奴隷として地下のアカファ岩塩鉱で働かされていましたが、ある晩、狼と山犬の群れが岩塩鉱を襲い人々を次々と噛まれます。
翌日、岩塩鉱で疫病が流行し、監視人も含めて次々と死んでいき、ヴァンだけが生き残ります。
ヴァンは地上へ這い出し、炊事棟の中で死んだ母親に庇われた小さな女の子が生き残っているのを見つけ出します。
ヴァンは岩塩鉱を脱出し、ユナと名づけた幼児とともに旅を続けます。
もう一人の主人公は、東乎瑠(ツオル)帝国に支配されたオタワル王国聖領の貴人であり医術師の若者ホッサルです。
ホッサルは謎の疫病により全滅した岩塩鉱へ調査のため、従者マコウカンとともに訪れます。
ホッサルはこの病がかつてオタワル王国を滅ぼした黒狼熱(ミッツァル)ではないかと疑います。
この黒狼熱(ミッツァル)が新型コロナを彷彿とさせて、読者は疫病を重ねあわせて読みすすんでいくことになります。
岩塩鉱で、ホッサルは奴隷の名簿からただ一人生き延びて脱走したヴァンという奴隷がいたこと知りました。
ホッサルはその噛まれても疫病を発症しなかったヴァンという男の血液を得られれば疫病に対して有効な薬を作り出すことができるのではないかと考えます。
ホッサルは従者のマコウカンと捜索の秘術を伝承する一族の長マルジの娘であるサエの二人にヴァンを見つけ出すことを命じます。
物語は次々と展開していくのですが、この物語には悪者が登場しません。
黒狼熱を持つキンマの犬を使って、故郷「ユカタの野」へ還ることを願った〈火馬の民〉の族長オーファンの爆死ですら、夢の実現を願って空しく潰えた悲しい死として描いています。
登場人物がそれぞれの運命のもとに生き、その命を全うするのを、心優しく語っています。
ヴァンは噛まれ体が回復した後、嗅覚が異常なほどに鋭くなり、キンマの犬たちに同化して繋がっていく自分に気づきます。
この物語の最期には、ヴァンが、疫病を内に抱えた黒狼とキンマの犬とともに深い森の奥深くへ走り去ります。
群れを支配する者という意味ではなく、本当の意味で群れの存続を支える尊むべき者として、盛りを過ぎた飛鹿のことを、敬意を込めて「鹿の王」と呼ぶのでした。
ヴァンは、家族のように情を交わしたユナやサエ、オキの民たちを疫病から守るため、キンマの犬たちとともに、原生林の森深くへ消え去ったのでした。
