カステラの雑学


カステラは見た目はスポンジケーキのようですが、洋菓子ではなく和菓子と言われています。

カステラとは

カステラ(かすていら・家主貞良・加須底羅)は、鶏卵を泡立てて小麦粉、砂糖(水飴)を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いた菓子の一つです。

語源

カステラはもともと、スペインのカスティーリャ(Castilla)王国で生まれたお菓子といわれます。

ポルトガル語ではカスティーリャ王国のことを「カステラ」(Castella)と発音するので、日本に伝えられたときに、日本人の質問に答えてポルトガル人が「これはカステラ王国のお菓子だ」(ボロ・デ・カステラ Bolo de Castella)と言ったのを「カステラ」と聞き、これがカステラの語源になったといわれます。


1704年(宝永元年)刊行の『長崎名物尋(ね)考』には、「カステイラという菓子は、本名カストルボルというを訛りていうなり」という記載があり
ます。 

また、異説として、スペインやポルトガルでメレンゲを泡立てる際に「城(castelo)のように高くなれ!」というかけ声をかけることから、カステロ=カステラとなったのではないかとする説もあります。

ただし、卵白をメレンゲ状に撹拌する手法は日本にカステラが伝わった後に普及したものであり、カステラの語源とするのは妥当でないとする見解もあります。 


カステラは和菓子

ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に発展した和菓子です。

ポルトガルには「カステラ」という名の菓子はなく、後述する原型とされる菓子も、カステラとは見た目も製法も異なります。

日本におけるカステラは長崎が本場とされており、その「長崎カステラ」と呼ばれるものは、長崎県長崎市の福砂屋を元祖とし、長崎県の銘菓という意味ではなく、製法が同じものを総称しています。

正方形または長方形の大きな型に流し込んで、オーブンで焼いた後にさお型に切ります。

水飴を用いているので、しっとりとした食感があります。

牛乳・抹茶・黒糖・チョコレート・チーズなどを加えて味付けをする変種も多いです。
 

この他に釜カステラ(東京式釜カステラ・東京カステラ)、蒸しカステラ、カステラ饅頭、ロールカステラ、人形焼などがあります。

釜カステラは、「6面焼き」と呼ばれるものもあり、一つ一つの型に入れてオーブンで焼いたタイプで、水飴を用いないことからさっぱりとしており、カステラの原型に近いともいわれます。

そもそも洋菓子というものが明治時代以降に入ってきた西洋菓子のことを指すため、室町時代に入ってきた南蛮菓子であるカステラは和菓子に分類されます。

歴史

カステラの起源については、スペインの焼き菓子「ビスコチョ」(Bizcocho)とする説や、ポルトガルの焼菓子「パン・デ・ロー」(pão de ló)とする説があります。


ビスコチョは、「二度焼くこと」が語源の焼き菓子です。

二度焼くので昔は硬い食感だったと思われます。

スペインの14世紀の文献『アルファンソ11世紀の年代記』には、「船に載せる食糧の乾パン」とあり、その頃はスペイン海軍の保存食だったのです。

現代のスペイン語の辞書には、スポンジケーキ、保存用の固パンなどともあります。 

砂糖は薬ともされた貴重品でしたが、16世紀末になって、ポルトガル領マデイラ島で豊富に生産されるようになりました。

卵も加えられてお菓子のビスコチョになったようです。

ビスコチョを焼くには大きな竈(かまど)(オーブン)が必要です。

16世紀以前には、そのような竈は村々の女子修道院にしかなかったので、村の人々は材料を持ち込んで尼僧に焼いてもらっていたようです。

16世紀後半には村の共同の竈に材料を持ち込みました。

またお菓子屋でも作られていたことが、1592年発行の菓子職人ミゲル・デ・バエサの『砂糖菓子の技法に関する4つの書』にビスコチョのレシピが二種類記載されていることでわかります

パン・デ・ローは、16世紀半ばに書かれた『王女ドナ・マリアの料理書』に掲載されているのが文献上の初出です。

パン・デ・ローは、ビスコチョに比べるとふくらんでいて丸いのが一般的ですが、円筒形や長方形のものなど各地方によってさまざまなパン・デ・ローが今もつくられています。

スペインのビスコチョと同じようにパン・デ・ローも初めは修道院でつくられていたのでクリスマスや復活祭にかかせない宗教菓子でした。

16世紀から17世紀頃では砂糖や卵は貴重品だったので、王族や貴族、宗教関係者など裕福な人々のみが食べる贅沢なお菓子でした。

一般の人々は復活祭など宗教的な日や結婚式などの特別の日だけに食べることができたようです。

パン・デ・ローと砂糖を使ったビスコチョはどちらも16世紀に生まれており、パン・デ・ロー自体がビスコチョから発展したものではないかとする見解もあるほか、当時イベリア半島に進出していたアラブ文化の影響でカスティーリャとポルトガルで同時期に似た菓子が生まれた可能性も示唆されています。 


日本での歴史

ポルトガル人が種子島に漂着したのが、1543(天文12)年です。

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが、1549(天文18)年です。

カステラは、鉄砲の伝来やキリスト教の布教と共にもたらされました。

江戸時代の文献で『原城紀事(はらじょうきじ)』の中の『耶蘇天誅記(やそてんちゅうき)』からの引用文に、1557(弘治3)年、ポルトガル船で来港のバテレンが「角寺鐵異老」(かすていら)などを人々に与えたとあり、また1626年(寛永3年)小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』には、宣教師が「下戸にはかすていら」などのお菓子を与えて民衆に布教活動をしたという記述があります。

その後、信者を獲得するにはまず領主に布教すべしとして、位の高い武士などにも食べさせたようです。


ポルトガルのリスボンで医学を学んだ後に、貿易商人になったポルトガル人で、イエズス会の修道士ルイス・デ・アルメイダが、いまの大分県の府内に日本で初めての西洋式病院をつくりました。

ここでは病人の治療に牛乳を飲ませたり、牛肉を食べさせたりもしました。卵が入っている滋養のあるカステラもつくっていたと思われます。

また長崎縁起略(ながさきえんぎりゃく)』などの古文書の記述によると、1587(天正15)年頃、長崎の金屋町で南蛮菓子商を営んでいた村山東安(とうあん)(等安)という人が、朝鮮を攻めるために肥前名護屋城(佐賀県鎮西町)に滞陣していた豊臣秀吉に会った際、南蛮菓子や南蛮料理をつくって秀吉をもてなし、それが気に入られて長崎代官にまで取り立てられたとあります。

この人物が初めて作った日本人ではないかとされています。

1600年前後の成立と見られる『南蛮料理書』には、「かすてほう路」という名称でカステラの製法が載っており、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の二条城行幸や1630年(寛永7年)の島津家での将軍御成の際にカステラが供されています。

1720年(享保5年)成立の西川如見『長崎夜話草』には、「長崎土産物」という項の「南蛮菓子色々」の中に「カステラボウル」が見られます。 

江戸時代には1644年に名古屋で、1681年に京都でカステラに関する記録が残されています。

江戸中期には既に江戸城でもカステラが日本の菓子として勅使の接待などで提供されていました。

カステラを焼くための炭釜の改良が進められ、江戸時代中期には現在の長崎カステラの原型に近いものが作られています。


長崎カステラの特徴である水あめの使用は、明治時代以降の西日本で始められたと言われ、これにより現在のしっとりとした食感となりました。

西日本においては、原型のパウンドケーキのようなさっくりとした感触が好まれなかったと見られます。

伝来当時、平戸藩松浦家において、南蛮菓子としてカステラが宴会に出された時、その味に馴染めず、包丁方(料理人)がカステラを砂糖蜜で煮たという逸話もあり、これが上述の平戸名産「カスドース」の原型になったという説もあります。 

カステラの製法は江戸時代の製菓書・料理書に数多掲載され、茶会でも多く用いられました。

その一方で、カステラは鶏卵・小麦粉・砂糖といった栄養価の高い材料の使用から、江戸時代から戦前にかけて結核などの消耗性疾患に対する一種の栄養剤としても用いられていたこともあります。

近代には水飴の使用が普及して、和菓子らしい風味をそなえるようになり、ガスオーブンや電気釜の使用で、以前より楽に安定してカステラが焼かれるようになりました。

こうした改良により各地に広まり、第二次世界大戦後の大量生産によって一般に普及しました。

江戸風カステラ

江戸時代では、カステラは現代と同じようにお菓子としても食べられていました。

しかしそれと同様に、おかずとしてや酒の肴としても食べられていたのです。

代表的なのがカステラと一緒に大根おろしを添えて食べるというものです。

どうやら現代人の口にはあまり合わないようですが、それはカステラが江戸時代の頃と比べて格段に甘いからです。

当時は砂糖はまだ高級品だったため、甘さは控えめなカステラだったわけで、それゆえに大根おろしなどと一緒に食べるとさっぱりして酒の肴に合うのだとか。

他にも吸物のお麩のように、カステラに熱湯をかけて食したり、夏場の暑い時には冷水をかけて食べることもあったようです。

カステラの応用菓子

カステラを応用した菓子としては、福島県会津若松市の会津葵、愛媛県のタルト、島根県の八雲小倉、長崎県平戸市のカスドース、長崎県長崎市の桃カステラなどがあります。

長崎カステラを洋菓子化したものとして銀装のカステラがあります。

料理としては、岡山県(主に倉敷市)の鮮魚カステラや、伊達巻もカステラの調理方法を応用したものです。

このほか、宮城県や沖縄県の名物として「カステラかまぼこ」と呼ばれる焼きかまぼこがありますが、それぞれに料理法は異なります。

台湾風カステラ

台湾は日本の統治下にあったことから、日本渡来のカステラは一般的な台湾人の食生活に深く浸透しています。

台湾のカステラは「長崎蛋糕」、「蜂蜜蛋糕」、「岩焼蛋糕」の三つの種類があります。

「蛋糕」は台湾中国語でケーキの意味で、蛋糕の前に二文字をつけてそのカステラの種類を示します。

長崎蛋糕は日本から伝わったカステラであり、形も味も日本のカステラとほぼ同じです。

蜂蜜蛋糕は「はちみつを加えて焼いたカステラ」を指し、岩焼蛋糕は「チーズを加えて焼いたカステラ」を指します。

後者の二つのカステラは、いずれも日本の形式から離れて、台湾独自の菓子として発展したものです。

庶民の習わしとして、母の日には母親にカステラを贈る習慣があります。 


カステラの有名メーカー

1624年(寛永元年)創業:福砂屋(長崎県長崎市) 「カステラ本家」を商標登録 。

1681年(天和元年)創業:松翁軒(長崎県長崎市)「カステラ元祖」を名乗る。 

1747年(延享4年)創業:上野風月堂(東京都台東区) 銅製のカステラ型で焼いたカステラを製造販売しています。

1900年(明治33年)創業:文明堂(長崎県長崎市・東京都新宿区など) 「カステラ一番、電話は二番」のフレーズと、関東地方では、カンカンダンスを踊るクマの操り人形のCMで知られています。

カステラの底に在る砂糖

カステラの底にある砂糖はもともとは腐らないために使われていました。

カステラと言えば長崎ですが、長崎から東京までの道のりの間に腐らせてしまわないように使われていました。 

砂糖には水分を吸収する役目がありますので砂糖をまぶすことで少しでも防腐剤の役目となります。 

そしてそこで砂糖が固まった触感が人気となり名残として、
いまではザラメを使うようになりました。

因みに砂糖は、常温で長期保存しても品質が変わらないために、賞味期限は定められていません。

カステラの賞味期限

松翁軒のカステラの賞味期限は、購入から14日程度で、保存は冷暗所(開封後は冷蔵庫)が適しています。

福砂屋のカステラの賞味期限は、おおむね8日程度で、メーカーHPには、季節によって賞味期限が前後することも明記され、保存は常温が適しています。


文明堂のカステラの賞味期限は、購入から10日程度で、保存は冷暗所が適しています。

1週間~20日程度と商品によってまちまちですが、保存は常温(開封後は冷暗所)を推奨するメーカーが多いようです。

賞味期限を延ばすコツは、カステラの水分が飛ばないように、よく密閉して保存します。

小分けのものならひとつずつラップで包み、食品保存用の袋に入れると乾燥を防ぐことができます。


カステラは冷凍保存ができます。

解凍ムラを防ぐために1切れずつ小分けにし、ラップで包みます。

解凍はゆっくり自然解凍します。

食品保存袋に入れ、空気を抜いて冷凍すると霜による品質低下を防ぐことができます。

冷凍したカステラの賞味期限は3ヶ月~半年です。

カステラは1歳未満の子供には与えてはいけない

理由としては、はちみつや黒糖を使用したカステラが多くてその中に含まれるポツリヌス菌が、腸内環境が未熟な乳児には、乳児ポツリヌス症という病気を起こしてしまう可能性が高いからです。

カステラの上下にある紙

カステラの上部の、こげ茶色の薄い皮のようなものを保護するためです。 

こげ茶色の薄い皮のようなものは「甘皮」と呼ばれ、あの紙が無いと包装用の紙やフィルムなどでこすれて、この「甘皮」がはがれて、見た目が汚くなります。 

ちなみに、上の紙はカステラを焼いた後、販売用に裁断し包装する前に乗せます。


また、カステラの底の下の紙は、生地を流し込む焼く時から付いています。

底に紙があることで、焼いても溶けずにザクザクした食感のザラメになります。

底の紙は、美味しいカステラを味わう為に不可欠な存在です。

カステラと紙がくっついてしまうのは、焼いた時にカステラやザラメから溶けた砂糖が冷えて固まったためです。

底の紙はフライパンで10秒ぐらい温めると、簡単に取れます。