不運な三菱MU-300

戦後、日本で製造された民間航空機はYS-11が有名ですが、その他に三菱でMU-2やMU-300、富士重のF-200エアロスバル、現在生産されているホンダジェットなどがあります。

中でもMU-300は優れた設計であったにも拘わらず、不運な運命を辿った航空機でした。

42年前に初飛行して以来、34年前に買収された後も名称を変えて、現在も製造販売されています。


MU-300とは

MU-300は、三菱重工業と米国現地法人三菱アメリカ・インダストリー社が製造した双発のビジネスジェット機です。

現在のレイセオン「ホーカー 400」です。 


機体の特徴

エンジンを機体の尾部に装備する、双発ビジネスジェット機です。

開発された当時は、P&WC JT15Dを装備する小型ビジネスジェット機はセスナ社製サイテーションと本機のみでした。 

サイテーション 500との比較において、MU-300はより広いキャビンを持ち、速度性能で上回りました。

それを可能にしたのは、MU-2で用いた、高翼面荷重に全翼にわたるフラップとスポイラーを組み合わせた独特の設計による新型翼の採用でした。

これにより、当時の同級機では最速である800km/hを超える高速性と低い着陸速度を実現しました。

ビジネス用の快適な居住性を確保するため、キャビン断面を楕円として内部容積を大きくし、高級感を備えたゆったりとした客室を用意しました。

コックピット風防には視界の歪みが少ない円柱断面曲面を用いており、この機体の大きな特徴となっています。

競合機との差別化を図るため、低燃費性と高い巡航速度という特徴を持っていました。

スペック 

定員: 乗員2名、乗客9 名
全長 :14.73m

全幅:13.23m
全高 :4.19m
自重 :4,420kg
最大離陸重量 :6,305kg
エンジン :P&W JT15D-5 ×2
出力 :1,320kg×2
最大速度 :845km/h=M0.69
航続距離 :3,140km
生産数:101機

(参考スペック:ビーチジェット400A)



定員:乗員2、乗客7-9
全長 :14.76 m
全幅:13.26 m
全高:4.24 m
自重:4,558 kg
最大離陸重量 :7,303 kg
エンジン :P&WC JT15D-5F ×2
出力 :1,320kg×2
最大速度 :956km/h=M0.78
航続距離 :3,140km



機種名の変遷

MU-300:初期生産型。海外では「ダイヤモンド I」。

ダイヤモンド I A:高温・高標高地域用にエンジンをJT15D-4に変更したもの。海外販売のみ。


ダイヤモンド II:エンジンをJT15D-5に変更し、航続距離・最大速度を向上させたもの。海外販売のみ。


ビーチジェット 400:ビーチクラフト社での「ダイヤモンド II」の呼称。

ビーチジェット400A:胴体を延長し搭載量を向上させたもの。

ビーチジェット400T:ビーチジェット400Aをベースにした練習機型。軍事訓練用に装備を改修してある。アメリカ空軍がT-1A、航空自衛隊がT-400として採用。

ホーカー400XP:ホーカー・ビーチクラフトの販売ラインに組み込まれたことから、ホーカー 400の名称へ改称。


開発生産の経緯

MU-2が好調であった1969年(昭和44年)、MU-2よりもワンランク上の高級ビジネス飛行機が計画されました。

そこでアメリカ合衆国に関係者を派遣し、市場調査を行った結果、最高速度は時速500陸マイル(約800km/h)、快適な広いキャビンを備え、競合機種を凌ぐ高い燃焼効率、経済性を持った機体とすることとしました。

1975年(昭和50年)10月にプロジェクトチームが、YS-11計画を率いた東條輝雄に中間報告を提出しましたが、東條は「さらに慎重な調査が必要」として突き返したため、さらに10ヶ月間の調査と計画の練り直しを行い、またこの間、アメリカの市場調査専門の会社に軽ジェット機のニーズを絞り込んでもらった結果、「MU将来開発計画書」が完成しました。 

CADやCAMなど当時の最新技術を駆使したコンピュータ設計を行い、空気抵抗を考慮したスマートな機体、優れた操縦性能と、MU-2よりも速い巡航速度805km/h(同クラスの平均的な速度より15パーセントも速い)、MU-2より一回り大きな機体をもったMU-300は、このクラスで最高の広さで、ゆったりとしたキャビンを持ち、このクラスでは他機種より数パーセント低い、最高の燃焼効率を持つものとなりました。

しかし、ジェット軽飛行機業界はグラマン、ロックウェル、セスナ、ビーチクラフト、リアジェットなどがひしめき合い、非常に挑戦を伴うものだったことから、MU-300では事業を三段階に分けることにしました。

第一段階では基礎設計を行い、第二段階は4機の試作機を製造し、性能確認を行うこととし、第三段階は全ての条件がそろった上で量産体制に入る計画としました。

それぞれの段階で慎重な経営判断をして、いつでも中止できる体制にして企業へのダメージを小さくしようとしました。 

1976年(昭和51年)に開発に着手し、上記のような段階を踏んだ上で、1978年(昭和53年)8月29日に初飛行しました。

2年間の性能試験を経て、慎重に経営判断した結果、1979年(昭和54年)5月に第三段階への進行することとなりました。

6月にアメリカ連邦航空局(FAA)の審査を受けるべく試作2号機をアメリカに送り、8月には耐空審査に合格しました。

審査の遅延と設計変更そして景気の悪化


1979年(昭和54年)、マクドネル・ダグラスのDC-10が、シカゴとパリで相次いで墜落し、数百名が死亡しました。

ダグラスの企業体質だけでなく、FAAの審査基準が甘かったのではないかと、連邦議会でも追及されました。

そのため、FAAは審査基準を大幅に厳しくする雰囲気となって、航空各社は動揺していました。 

しかし三菱を含めた小型機メーカーは、この基準はダグラスやボーイングなどの大型機に適用されるもので、小型機は無関係だと考えており、また完成したMU-300に自信を持っていたため、事故や議会の追及後も機体の改修などを施さず、FAAが動き出すのを待っていました。 

しかしFAAは全ての機体への審査基準を厳しくすると発表しました。

三菱にとっては大きな誤算でした。

月の耐空試験から9ヶ月も経って、ようやく飛行試験の許可を得ましたが、MU-300は基準改正後の試験対象第一号となり、航空業界から多大な注目を浴びることになってしまいました。

しかも、その試験自体がFAAも判断に迷う内容ばかりで、解釈をめぐってFAA内で延々と議論を続けたため、335時間、17ヶ月に及ぶ非常に膨大な時間を費やしてしまいました。

1980年(昭和55年)9月には110機も仮受注していましたが、手直しや設計変更がいたるところに発生し、型式証明を取得できたのは翌1981年(昭和56年)に入ってからでした。 

日本で販売した時期は、第二次オイルショックからバブル景気前の円高不況であったため、売上は伸び悩びました。 

海外では三菱の社紋である菱形(ひしがた)に掛けた「DIAMOND(ダイヤモンド)」の名で販売され、その技術力の高さが評判を呼びましたが、頼りのアメリカ合衆国市場はFAA審査に手間取っている間に一変、政府が高金利政策をとったことで不況に陥り、航空業界も軒並み経営悪化、ビジネス機の需要は皆無となっていました。

そのうえ、FAA審査の手間取りでMU-300の信用が低下、納入の遅れによって契約のキャンセルが相次ぎまし。

110機もの仮契約で自信を深めていた三菱の衝撃は大きなものでした。

高額である飛行機の受注は半ば投機的なもので、見通しが狂えばキャンセルするのはこの業界の常識でしたが、三菱はキャンセルに対する有効な手段を全く用意していませんでした。 

また、三菱は1970年代初頭にあった米航空業界の規制緩和によって、激しい競争にさらされるエアラインは、軒並みローカル線から手を引き、そこで自家用や社用のビジネスジェット機の需要が増すと考えていました。

現実に大手エアラインを中心にローカル線は次々に閉鎖され、一方の自家用ジェット機の需要は好景気に支えられて増えていました。 

だがその目論見は大きく外れました。

不況によってビジネス機需要は頭打ちとなり、一方のエアラインは、全米の空港をコンピューターネットワークで結んだ「ハブシステム」を導入し、主要空港での乗り継ぎの便を良くするなど、新たな戦略を次々に打ち出してきました。

ビジネス機市場は大メーカーでさえ生き残りをかけた非情なリストラ策を講じるほかなく、三菱も追い詰められました。 

遂には、三菱重工内において現地法人三菱アメリカ・インダストリーMAIの清算まで議題に上るほどになりました。

このとき、MU-2で発生した赤字を含め、100億円もの負債を抱えていました。

機体の開発費だけでなく、販売網やサービスネットワークの製作によって発生した赤字は、三菱一社で支えられるものではなくなり、総合重工業である三菱では、他の部門から航空宇宙部門への不満が発生していました。


MAIの完全撤退と他社による買収

1983年(昭和58年)4月、再建された新MAIは、MU-300のパワーアップ型であるダイヤモンド IIを発表、市場に投入しました。

ところがこれもさっぱり売れず、開発費がそのまま赤字に上乗せされてしまい、もはや会社の維持は困難となりました。

このような事態は三菱だけではなく、当時の小型機業界全体が軒並み経営危機にさらされていました。

1985年(昭和60年)12月、小型機の老舗セスナがジェネラル・ダイナミクスに、デ・ハビランド・カナダはボーイングに、ガルフストリーム・エアロスペースはクライスラー(後にジェネラル・ダイナミクス)にそれぞれ買収、といった具合に次々に再編が起こっていました。 

そこでMAIは、巨大防衛企業レイセオンの子会社であるビーチクラフト社と提携し、MU-300シリーズをビーチの巨大な販売網に乗せてもらうことにしました。

一方のビーチも、膨大な赤字に苦しんだ挙句にレイセオンに買収され、経営の立て直しを図っている中、プロペラ機のみの商品にジェット機が増えることは非常に望ましく、両者の利害は一致しました。 

だが、不況に喘ぐアメリカ政府は、対日収支の悪化と日本の産業の急成長を槍玉に挙げ、不況の要因を日本製の自動車や家電製品、半導体に求め、国民に広がった対日感情悪化を利用しました。

三菱もすでに、航空部品をアメリカ企業から購入できなくなったり、価格を異常に吊り上げられる被害にあっていました(アメリカで使用する航空機は、アメリカ製の部品が50パーセント以上を占めていなければならない規則、いわゆる「バイアメリカン法」があります)。 

この状態で「三菱」を前面に出して販売することはほぼ不可能であるとしたビーチは、提携後にMU-300を全てBEECHJET 400(ビーチジェット400)の名で販売することとしました。

また、販売済みのMU-2とMU-300のアフターサービスもビーチが引き受けることとなって、MAIの業務は大幅に縮小されました。 

その後、MAIは段階的に業務をビーチへ移管し、テキサス州サンアンジェロの自社工場も閉鎖し、1986年(昭和61年)に米国営業から完全に撤退しました。

ビーチは日本から送られる機体に、独自の内装を施して販売し、また過去にMAIが販売したMU-300も全てビーチジェット 400として統一しました。 

三菱はその後もビーチが要求するだけの機体を生産しましたが、ビーチはMU-300の全ての生産・販売権を要求してきたため、遂に利益があげられなかった三菱は、1988年(昭和63年)2月に設計を含めた生産過程全てをビーチに売り渡す契約に合意し、同年に日本国内での販売も終了しました。

三菱は小型機業界から完全に撤退し、MU-300は101機の販売で膨大な赤字を生むこととなりました。

なお三菱重工ではMU-300を社用機として利用し、機体の整備も子会社で行っています。
なおMU-300を買収したレイセオン社は1990年に、セスナ 550 サイテーションIIに対抗するビーチジェット400のストレッチタイプ400Aを発表しました。


ビーチジェット400Aは航続距離や搭載可能重量がいずれも向上し、操縦室も改善されました。

内装も変更されて、より高級な機体となりました。

1990年(平成2年)にアメリカ空軍がビーチジェット 400Aの練習機型400TをT-1Aジェイホークとして採用したことから話題となり、1990年代には日本が不況に喘ぐ一方、アメリカの空前の好景気に支えられてビーチジェット400Aは売上を伸ばしました。

現在では航空自衛隊でも、ビーチから導入した同型機を、「T-400」と称して使用しています。



なお、ビーチジェット 400はその後、1994年のレイセオン・エアクラフト・カンパニー設立以降、やはりレイセオンに買収されたホーカーのラインに組み込まれたことから、ホーカー 400XP (Hawker 400XP) の名称に変更されています。



2000年までにビーチジェット400型が64機、ビーチジェット400A型が303機を売り上げています。 

なお、レイセオンは2007年にビジネスジェット部門を売却し、以降はホーカー・ビーチクラフト・コーポレーションが生産・販売しています。