イーストマン・コダック
写真の好きな人なら誰でも知っているイーストマン・コダックは、2012年に倒産しました。
あれだけ市場を占有し、歴史も技術もあった大企業が、なぜ破綻したのか、色々と説明はなされていますが、充分納得できるものではないように思います。
記録部分はケーブルで接続された200Mバイトの「デジタルストレージユニット」に記録されるため、カメラ単体ではまだ撮影できませんでした。
なぜ破綻したのか
この十数年の短い間に、カメラはデジタル化を経て、スマホに取って代わられました。
写真は印刷されなくなり、オンライン上でシェアされるようになりました。
残念ながら、コダックは、オフォト(Ofoto)を、その後爆発的な人気を得た「インスタグラム」のようなソーシャルメディアに育て上げるのではなく、単にデジタル写真を印刷する人を増やすために利用しました。
あれだけ市場を占有し、歴史も技術もあった大企業が、なぜ破綻したのか、色々と説明はなされていますが、充分納得できるものではないように思います。
イーストマン・コダック
(英語: Eastman Kodak Company)は、アメリカ合衆国に本拠を置く世界最大の写真用品(写真フィルム、印画紙、処理剤)メーカーです。
一般的にはコダックの略称で知られています。
世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーでした。
また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもあります。
写真関連製品の分野で高い市場占有率を占めることで知られていたほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っていました。
2000年頃までは世界的な大手企業であり、「写真撮影の決定的瞬間」を意味する「コダック・モーメント(Kodak Moment)」という言葉も出来ました。
1975年には、世界初のデジタルカメラを開発するなど、アナログ分野だけでなくデジタル分野でも、高い技術力を誇っていました。
しかし、写真フィルム事業での大きすぎる成功のため、デジタル化の波に乗り遅れ、2000年代以降のフィルム市場の急激な衰退にともない、2012年に会社が倒産しました。
「コダック・モーメント」とは、「市場が急激に変化する決定的瞬間」を意味することになり、旧分野での大きすぎる成功のため、新たなイノベーションに乗り遅れる「イノベーションのジレンマ」、または新興の技術が、旧来の優れた技術を破壊的に駆逐する「破壊的イノベーション」の代表的な犠牲者として知られることになりました。
2012年の倒産後は、企業規模を大幅に縮小して再出発し、2013年に再上場しました。
歴史
1880年 写真乾板の製法を確立したジョージ・イーストマンが、ニューヨーク州ロチェスターにて乾板の商業生産を始めました。
1881年ジョージ・イーストマンとビジネスマンのヘンリー・A・ストロングが、前身となる「イーストマン乾板会社」(Eastman Dry Plate Company)を創業しました。
1888年ジョージ・イーストマンが商標「コダック」の使用を開始しました。
同時に「あなたはボタンを押すだけ、あとは私たちにお任せを」(You Press the Button. We Do the Rest.)という触れ込みで市場に参入しました。
1900年 同社初のカメラ製品「ブローニー」を1ドルで発売し、大衆に写真を一気に普及させました。
1921年 シネコダックとして、小型映画の規格「16mmフィルム」を発表しました。
1932年 シネコダック8として、のちに「ダブル8」と呼ばれる小型映画の規格を発表、同年3月14日、ジョージ・イーストマンが死去しました。
1963年「インスタマチック」規格を発表し、フィルム送出し部とフィルム巻取り部が一体となったカートリッジ(コダパックカートリッジ)にフィルムを収納する方式を採用しました。
1963年「インスタマチック」規格を発表し、フィルム送出し部とフィルム巻取り部が一体となったカートリッジ(コダパックカートリッジ)にフィルムを収納する方式を採用しました。
1965年 新しい小型映画の規格「スーパー8」を発表しました。
1971年 「ポケットインスタマチック」規格を発表しました。
1982年 「ディスクフィルム」規格を発表しました。
2001年11月9日、同社の名を冠したコダック・シアターがオープンしました。
2007年 医療用X線フィルムなどのヘルス事業をカナダのオネックスに売却しました。
コダックの旧ヘルス事業はオネックスが設立した子会社ケアストリームヘルスに移管、コダックから引き継いだヘルス関連の製品は引き続きコダックのブランドで販売されています。
米イーストマンコダックの映画用カラーフィルムで撮影された作品が、アカデミー賞誕生以来79年連続して最優秀作品賞を受賞しました。
2008年 この年の北京オリンピックを最後に、長年務めたオリンピックのスポンサーから撤退しました。
2012年1月3日 ニューヨーク証券取引所から上場基準についての警告を受けたと公式発表しました。
2012年1月19日 連邦倒産法第11章の適用をニューヨークの裁判所に申請し、上場を廃止しました。
2012年2月 コダックが、アカデミー賞授賞式会場でもある、コダック・シアターからコダックの名を削除する(命名権を契約更新しない)よう求めていると報じられました。
2013年8月20日 規模を大幅に縮小したデジタルイメージング企業として連邦倒産法第11章の適用を脱する計画について裁判所から承認を得ました。
2013年9月3日 英国コダックの年金運営ファンド「コダック年金プラン」が同社のパーソナライズドイメージング事業およびドキュメントイメージング事業を買収しました。
新会社「コダックアラリス」(Kodak Alaris)を設立しました。
2013年11月1日 法人向け商業印刷を柱にして経営再建を果たし、ニューヨーク証券取引所(NYSE)に再上場しました。
ティッカーシンボルは「EK」から「KODK」に変更されました。
社名の由来
コダックという社名は、力強くシャープな感じがすると同時に、創業者のお気に入りでもあった「K」を挟んだ単語をいく通りも考えた結果として生まれたものであって、単語そのものに特別な意味はありません。
世界初のデジタル一眼レフカメラ
ニコンFマウントDCS100(1991年5月発売)は世界初のデジタル一眼レフカメラでした 。
ニコンF3がベースでした。
専用のフォーカシングスクリーン、モータドライブ付き、秒2.5コマの連続撮影が可能、感度はISO100。20.5×16.4mm、1024×1280=1.3メガピクセル(130万画素)CCDを搭載していました。
撮影画像はケーブル接続によりモノクロ液晶モニター画面付きのDigital Storage Unit ("DSU")に格納されます。
DSUは200メガバイトの容量で、150~600枚の画像が保存可能でした。
なぜ破綻したのか
この十数年の短い間に、カメラはデジタル化を経て、スマホに取って代わられました。
写真は印刷されなくなり、オンライン上でシェアされるようになりました。
かつて世界屈指の有力企業だったコダックは、2012年に破産法を申請し、レガシー事業から撤退して特許を売却し、大幅に規模を縮小して2013年に再出発しました。
かつての成功に目がくらみ、デジタル技術の台頭を完全に見逃したという説は、全く当を得ていません。
なぜなら、世界初のデジタルカメラの試作機を1975年に開発した人物は、コダックのエンジニア、スティーブ・サッソンでした。
コダックは、みずから発明した技術に投資しなかった、という説明についても、コダックはその後、さまざまな種類のデジタルカメラの開発に数十億ドルも投じてきた事実からしても的を得ていません。
コダックは、開発の重点をデジタルならではの簡易性を重視するよりも、従来のフィルム写真の性能に近づけることに置いたため、本来市場が求めていた方向性と乖離してしまったという説明も、当初の製品には当てはまるかもしれませんが、最終的には簡易性を受け入れ、カメラの写真をパソコンに手軽に取り込める技術を確立し、市場で強力なポジションを築いたことからして、当たっていないように思えます。
かつての成功に目がくらみ、デジタル技術の台頭を完全に見逃したという説は、全く当を得ていません。
なぜなら、世界初のデジタルカメラの試作機を1975年に開発した人物は、コダックのエンジニア、スティーブ・サッソンでした。
コダックは、みずから発明した技術に投資しなかった、という説明についても、コダックはその後、さまざまな種類のデジタルカメラの開発に数十億ドルも投じてきた事実からしても的を得ていません。
本当の破壊的変化は、人々は写真を印刷しなくなり、カメラや携帯電話の写真をソーシャルメディアや携帯アプリに投稿し共有するようになったことであり、コダックはこの変化に完全に乗り遅れた、という説もあります。
しかしこれも、事実とは少し違うようで、コダックは、2001年にオフォト(Ofoto)という写真共有サイトを買収しています。
そして2012年4月、破綻処理の一環として同サイトを2500万ドル以下でシャッターフライに売却しました。
コダックはデジタルカメラを開発し、デジタル技術に投資もし、さらには、写真がオンライン上でシェアされるようになることさえ見越していました。
写真のオンライン共有は、それ自体が新ビジネスであり、印刷事業を拡大する手段ではないという、この可能性に気づかなかったところに、コダックの過ちがあったと言われます。
米国を代表する存在であったコダックは、開発力、資金力、そして変革への先見の明も兼ね備えていたにもかかわらず、破壊的変化の犠牲者となって破綻したとして、後世に長く語り継がれることになると思われます。









