百田尚樹の「海賊とよばれた男」戦前戦中戦後、石油業界の風雲児として暴れ回った男の一生を描いた小説


百田尚樹の「
海賊とよばれた男」は、歴史経済小説です。

主人公・国岡鐡造は、
出光興産創業者の出光佐三をモデルとしています。

主人公・国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程を描いています。

2016年第10回本屋大賞を受賞した作品です。

2016年12月に映画化もされました。


あらすじ

序章

1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争は、連合国に対し無条件降伏した日本の敗戦で終わりました。

東京は焼け野原となり、国岡商店の店主である国岡鐡造は、当時すでに60歳でした。

国岡商店は、鐡造が一代で築き上げた石油販売会社でした。

幸い東京本社の国岡館は焼け残りましたが、戦前戦中、海外に活動の大部分を置いていたので、敗戦により海外の資産はすべて失なわれました。

鐡造は本社に残った60名の社員を集めて訓示し、「ただちに建設にかかれ」「必ずや再び立ち上がる日がくる」「しかし、その道は、死に勝る苦しみと覚悟せよ」と言います。

朱夏

やがてGHQが進駐し、日本は自治権をいっさい失い、すべてはGHQの管理下に置かれます。

国岡館で開かれた重役会議で、常務の柏井は「この際、思い切った人員整理をすべきです」と店主の鐡造へ進言します。

国岡商店は海外資産のすべてを失い、残っているのは莫大な借金だけでした。

営業所も支店もなく、それ以前に仕事がありません。

しかし、鐡造は「ならん」「ひとりの馘首もならん」と言います。

国岡商店は1911年の創業以来、ただの一度も馘首がなく、鐡造の口癖は「店員は家族と同然である」というものでした。

鐡造は、「店員達は、国岡商店の最高の資材であり財産である」「人間尊重の精神が今こそ発揮されるときではないか」と告げ、重役達の人員整理すべきという意見を退けます。

「人間尊重」は鐡造の強い信念であり、金科玉条でした。

そして鐡造は、「もし国岡商店がつぶれるようなことがあれば、ぼくは店員たちとともに乞食をする」と言い切ります。

「この非常時においては、仕事を選んではならない。全店員、やれることはなんでもやろう」という鐡造の指令を受けた重役たちは店員たちとともに仕事探しに奔走します。

鐡造は、戦前から国内の同業他社と対立し、石油配給統制会社(石統)からも締め出されていました。

鐡造は霞が関にある石統に向かい、社長の鳥川に、頭を下げて、わずかに残った民需用の油の配給を頼みます。

しかし、鳥川に無礼な態度で、にべもなく断られ、堪忍袋の緒が切れた鐡造は「もういい!」と怒鳴り声をあげ部屋を出てきます。

国岡商店は、新しい仕事を求め、漁業や農業など様々な業種に取り組むますが、どの事業も利益を出すまでにはいたらず先の見通しも暗い実情でした。

鐡造は愛蔵の美術品を手放して、店員たちのため金銭を工面しました。

ある日、元海軍大佐の藤本という男が鐡造を訪ねてきて、内閣逓信院からGHQの命により「ラジオ修理」を急ぐよう求められているという話をします

鐡造は、臨時のラジオ部をつくり、藤本を部長に任命します。

そして藤本は、事業計画書を作り、いくつもの銀行をまわり、苦労の末、当初計画の2倍の融資を受けることに成功します。

やがて海軍からの人材を中心に本店5階部分すべてがラジオ修理工場になり、全国にあった7つの支店と営業所は「ラジオ修理」の店に代わりました。

GHQは、日本への石油輸入再開の条件として、「旧海軍の燃料タンクから燃料を浚え」という覚書を発します。

商工省は、石統にその業務を発注しましたが、石統に加入している業者はどこも手を上げませんでした。

商工省から課長が国岡商店を訪ねてきて、この業務を依頼します。

鐡造は、この業務が非常に過酷な仕事であると知った後も、「この事業は日本のためにおこなうものである」として、この仕事を受けることを決断します。

こうして、「旧海軍の燃料タンクから燃料を浚う」という過酷な業務が多くの店員たちを投入して進められることになりました。

国岡商店には創業以来、「社員は家族」「非上場」「出勤簿は不要」「定年制度は不要」「労働組合は不要」、以上の5つの社是が有りました。

多くの経営者から非常識と嗤われながらも、鐡造は信念を貫き通しました。

その後も国岡商店は、商工省石油課と旧石統の流れをくむ石油配給公団の国岡商店を排除しようとする陰謀画策により、販売業者指定案から除外されそうになります。

しかし、国岡商店の社員たちがタンク底の廃油をさらうために必死になって働く姿が、特にGHQの参謀部のアンドレー・チャンに強い印象を与えたことから、販売業者指定案の国岡商店を締め出す条項が削除され、販売業者指定除外が撤回されます。

販売業者指定を受けた国岡商店は、ようやく石油販売業者として再出発することができました。

青春

国岡鐡造は幼少期、小学校のころは、才気活発なところが全く無く、体が弱く、体力も無く、学業成績も普通で、山で草の葉で眼を傷つけてしまったことが原因で黒板の字が見えないほどの強度の近視というハンディを負っており、加えて毎夜悪夢にさいなまれるという神経症を患っていました。

しかし、高等小学校を卒業後、父の反対に抗して福岡商業を受験して見事合格した頃から克己して学問にはげみ、また短艇部に入部して体を鍛え、弁論部にも属して三年生になる頃には、見違えるほどの自信に満ちた少年になりました。

そして19歳の時、日本で2番目の高商として設立された神戸高商を受験し、4倍の競争率を潜り抜け合格します。

神戸高商在学中、国岡鐡造は当時、日邦石油の技師からは石油の将来性について悲観的な話を聞きますが、石油はいずれ世界を変えるような漠然とした予感を抱きます。

また、中間搾取の無い商いをしたいと考え、消費者の利益のために、問屋を介さず広範囲に直営店を展開する「大地域小売業」の夢を持ちます。

国岡鐡造は卒業論文で、筑豊炭田の将来について取り上げ、石炭の寿命は75年で終わると断言し、将来的に石油が石炭の代わりになると予見します。

また「国家の統制に対する批判」も述べており、正にこの論文は彼自身の人生の予言の書となりました。

神戸高商卒業後、当時急成長を遂げていた新興の大商社であった鈴木商店を蹴って、神戸従業員3人の酒井商店に丁稚として就職します。

鐡造は、ここで店主の一生懸命働く姿に感銘を受け、「商いとは何か」「店主とはどうあるべきか」を学びます。

鐡造は酒井商店に入って3年目に、台湾に出張します。

台湾と神戸を往復する貨物船が帰りは空船であることに目を付け、船会社との交渉で小麦の運賃を大幅に安くしてくれることになりました。

それにより、小麦粉の卸価格を下げることができたことから、鐡造は大手の三井物産を退けて、1か月あまりで100を超える台湾の製麺所を得意先として開拓することに成功しました

帰国後、鐡造は生家の没落を知り、ばらばらになった家族を一つにして皆で暮らすためにも、自分の店を持って経済的に安定する必要があると考えました。

そして、神戸高商時代に知り合った資産家の日田重太郎から多額の資金援助を得て、郷里に近い門司に「国岡商店」として独立します。

鐡造は、約1年の間、全く商売がうまくいきませんでしたが、繰り返し実験によって、機械油を調合して温度上昇の少ない油を作り出し、大工場の明治紡績から大量の機械油の発注を受けます。

鐡造は開業して3年目の29歳の時、当時19歳のユキと見合いして結婚し、その後12年間苦労をともにします。

国岡商店は相変わらず赤字が続き、とうとう開業4年目に資金が尽きますが、再度、日田重太郎から多額の資金援助を得て、鐡造は商売を徹底的に見直し、新聞社を訪ねて、数か月前の新聞に「灯油を燃料とする船」という記事に目をつけます。

鐡造は、その記事の「ポンポン船」の燃料として、灯油と成分がほぼ同じで価格が安い軽油でもエンジンは動くはずだと考え、実験して全く問題ないことを実証してみせました。

鐡造は下関と門司での住み分けを図る特約店協定をかいくぐるため、下関側の漁師に海上で燃料を売ることを考えつきます。

そして従業員とともに手漕ぎの伝馬船で海に漕ぎ出し、関門海峡を暴れまくる国岡商店の伝馬船は「海賊」と呼ばれました。

鐡造は、更に一斗缶で油を売る商売から、計量器付き給油船を考案して、大きなタンクが備えられた船を作り、そこからポンプで給油するようにしましたが、特許を取っていなかったため、この計量器付き給油船は他の石油販売会社も使うようになり全国的に普及しました。

さらには厳冬の満州でも、凍結せず使用可能な調合潤滑油をホテルでの公開実験と実際の車両実験で実証し、当時スタンダード石油等の外国の石油会社が独占していた南満州鉄道に売り込むことに成功します。

国岡商店は、関東大震災後、第一銀行からの融資返済を告げられて倒産寸前となりますが、二十三銀行の長野頭取に鐡造が会うことにより融資が決定し危機を乗り越えました。

鐡造は41歳になったが、妻のユキとの12年間に子供に恵まれなかった。ユキは鐡造に跡取りをつくるべきと告げ、離婚を申し出ます。

鐡造はユキの申し出を涙を流して受け入れます。ユキは裕福な実家に戻り、暮らしを心配することはありませんでしたが、生家が困窮することがあれば、鐡造はいつでも援助する覚悟でした。

鐡造は42歳の時、知人の紹介で、旧武家の娘で25歳の多津子と結婚しました。

その後、多津子との間に1男4女をもうけることになります。

昭和金融恐慌の時、二十三銀行が大分銀行と合併し、貸付金の回収により、国岡商店は再び倒産の危機に直面しますが、首藤頭取と鐡造の会談で回収は撤回されたばかりか、さらに融資の枠が広げられます。

しかし、情勢は、世界恐慌を発端として、満州事変を経て、日本は戦争への道をひた走り、石油も戦略物資として国家統制が進みます。

国岡商店は、海外にも販路を拡大しますが、一方で、同業他社からの反発も強く、さらに日本の石油政策の統制化を受けて、国岡商店は日本国内での営業が困難になります。

鐡造は、念願のタンカー日章丸を就航させ、さらに上海に大油槽所を完成させますが、程なく、米国の対日石油禁輸を発端に、大東亜戦争が開戦します。

鐡造も、日本のためという一貫した姿勢で、日章丸や大油槽所
を軍に提供しますが、石油を絶たれた日本は、戦局で劣勢に立たされ、大局の前になすすべもなく、国土は焦土と化し敗戦を迎えることになります。

白秋

国岡商店は次々と苦難を乗り越え、石油タンクの所有、そして二代目のタンカー日章丸建造を果たし、外国資本によらない「民族系」石油元売として順調に事業を拡大していた。しかし欧米資本の7つの石油メジャー、通称「セブンシスターズ」の妨害により、北米からの石油輸入が困難になった。

ある日、鐡造は同じ福岡出身の実業家石橋正二郎の紹介で、米国籍のイラン人:ホスロブシャヒと知り合う。昭和26年(1951年)、イランは石油の国営化を宣言し国際関係が不安定になっていたが、鐡造は英国との契約を反故にした経緯を快く思っておらず、イランからの石油輸入を断る。しかし、イランが長年にわたり英国から搾取されている実態を知ると、海外渡航や保険の問題解決、そしてモサデク首相らとの交渉をまとめ上げさせ、ついに日章丸の派遣を決心する。昭和28年(1953年)、日章丸は極秘裏にアバダン港に到着し、イラン人の大歓迎を受ける。復路では英国東洋艦隊の海上封鎖を掻い潜る。この「日章丸事件」は、石油自由貿易や日イラン友好の嚆矢として期待されたが、モサデクの失脚によりわずか3年でイランとの貿易は終わった。

玄冬

鐡造は石油メジャーと対決するためには、産油国から直接輸入し、自ら精製する必要を痛感する。バンク・オブ・アメリカからの巨額の融資を受けることに成功すると、アメリカ人の懐の広さに感じ入る。そして、昭和32年(1957年)、徳山に、自らの理念を込めた製油所を想定以上の速さで建設させた。

老齢になっても鐡造の反骨精神は、なおも健在であり、消費者や日本の利益にならないと考える生産調整や石油業法には強硬に反対した。やがて恩人である日田との死別を経て、鐡造はついに引退を決意する。ある時、やむを得ず離別した先妻:ユキの消息を知り、若かりし頃に思いを馳せるが、すぐその感情を打ち消す。

終章

晩年、敗戦直後に手放した美術品を買い戻していた鐡造は、昭和56年(1981年)にようやく仙厓の「双鶴画賛」を買い戻し、意味を悟る。同年、大勢の家族と「双鶴画賛」に看取られ、95歳で生涯を終える。