ファン・ボルム「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」を読んで

小説、ファン・ボルム「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」は、本屋大賞の2024年翻訳部門受賞作です。

本書は355ページの長編小説であるにもかかわらず、40章の各章はさほど長くないので、隙間時間を利用しても、比較的読みやすい小説といえます。


主人公は、30代後半の女性ヨンジュです。

彼女は、10年以上大企業のソフトウェア開発者として働いていましたが、燃え尽き症候群に陥り、会社を辞めて、子どもの頃からの夢でもあった書店主になるため、ソウル市内のヒュナム洞という住宅街に「ヒュナム洞書店」を開業しました。

この書店は、カフェを併設した書店でした。

ヨンジュにとって、書店開業当初は経営の知識も乏しく、青白い顔で店番をする日々が続きます。

客足も少なく、経営は決して順調とは言えませんでしたが、そんな書店にミンチョルオンマが時々訪れ、彼女を気遣ってくれました。

ヨンジュは、客の来ない店内で本を読んでいるうちに、自分の心が健康になりつつあるのを感じました。

そして、半分も埋まっていない本棚をせっせと本で埋め、良い本の情報をあちこちから集めました。

読んだ本には、自分なりの感想を書いたメモを挟んでおきました。

ヒュナム洞書店を書店らしくすることに力を注いでいるうちに、インスタグラムにアップしたメモの内容を見て、訪れる人も現れました。

ヨンジュは、いろいろアップしていて、読んでいる本の紹介や書店の朝と帰りのあいさつまでしていました。

書店では、やるべきことが次から次へと出て来て、手と足をせっせと動かさなければいけなくなりました。

そのように書店のことをしているときに、コーヒーの注文がいっぺんに入るとてんやわんやになるため、書店の近くにバリスタ募集の張り紙をしました。

そして、その翌日、ミンジュンが訪ねてきました。

ミンジュンはヨンジュに採用されますが、当時彼はヨンジュの8歳年下の29歳、良い大学を卒業したにも関わらず就職できず、親の期待に応えられない自分への失望と、将来への不安が彼を苦しめていました。

ヒュナム洞書店にコーヒー豆を卸している焙煎業者の女性代表ジミが、ヨンジュの家によく遊びに来ていました。

彼女は、仕事に対する情熱を持ち続けていましたが、結婚生活で夫に対する様々な悩みを抱えていました。

書店でコーヒーを淹れるミンジュンとも、焙煎するコーヒー豆の知識を提供しながら親しく話をするようになりました。

ミンチョルオンマは韓国の呼び方で、「子の名前+オンマ(お母さん)」という意味です。

無気力な息子、高校生のミンチョルの将来を心配する母親でした。

ヨンジュに何か胸がスカッとする本を紹介してくれるよう頼むと、「目覚めの季節-エイミーとイザベル」という母と娘の関係を描いた小説を勧められました。

10日ほど経って、ミンチョルオンマはヨンジュに、おかげで母親に思いを馳せることが出来たし、息子との関係もあらためて考えるきっかけになったと言います。

ヨンジュ自身、離婚することを母に伝えた時に、仲たがいして、娘が本屋をやっているというのに一度も訪ねてきていませんでした。

ヨンジュは、ミンチョルオンマから、17歳の息子ミンチョルと、週に1度書店に行って、ヨンジュの推薦する本を読むなら、塾に行かなくても、家でゴロゴロしていても一切小言を言わないという合意をしたという話を聞きました。

ヨンジュの書店には、平日はほぼ毎日やってきて5,6時間は過ごしていく女性ジョンソがいました。

彼女は、ヨンジュに「ここでコーヒーを一杯飲んだら何時間いられますか?」と聞いて、3時間おきにコーヒーを注文するようになり、大半にの時間はそっと目を閉じて瞑想をするようになりました。

ジョンソは、非正規社員でしたが、仕事を家に持ち帰ってまで一生懸命働き、2年経ったらきっと正社員になれると会社の周りや上司からも言われ続けながらも、何度も裏切られてきたことに対して、怒り、絶望して退職したのでした。

彼女はひんやりした風が吹き始めると、ヒュナム洞書店でアクリルたわしを編むようになりました。

編んだたわしのが何個くらいになるのか気になりだしたころ、ジョンソはパンパンになった紙袋を抱えて来店し、ヨンジュにヒュナム洞書店への寄贈を申し出ます。

ヒュナム洞書店へ訪れた人へ、たわしを無料で配るたわしイベントは、たいへん好評でした。

ジョンソは、書店を続けていくためには、まずはお客さんに書店に来てもらわなければいけないと考え、作家のトークイベントや読書会も開くようになりました。

その中にネットでブログが炎上した兼業作家・スンウがいました。

彼のブログは、ある翻訳書の中から見つけた間違った文章を紹介していましたが、その翻訳書を刊行した版元の社長が見かけて自社のブログに反駁記事を載せたのがきっかけで反駁の応酬が繰り返されたのでした。

最終的に、社長が白旗を上げたのですが、スンウはその会社の本の校正校閲を依頼されることになりました。

彼は新聞にコラムを連載するようになり、「良い文章の書き方」という本を出版して作家デビューをしました。

スンウは、工学系大学を卒業して携帯電話を製造している会社に就職してソフトウェアの開発者となりました。

しかし、超多忙なキャリアからドロップアウトして、今は品質管理の仕事をしています。

スンウは、ヒュナム洞書店で、作家としてトークイベントを受け入れてジョンソに初対面して以来、ジョンソに好意を抱くようになり、ジョンソが新聞コラムに載せる文章の添削を引き受けました


この小説の中に登場するのは、いわゆる人生の勝ち組の人々ではありません。

物語は、大きな展開や事件があるわけではなく、淡々とした日常の出来事を、登場人物の視点で描かれていく群像小説です。

所々に、読む人を励まし元気にしてくれる言葉が散りばめられた癒し系小説でもあります。