伊予原 新 「八月の銀の雪」を読んで

伊予原 新 「八月の銀の雪」を読みました。

作者は、神戸大学理学部から東京大学大学院理学系研究科で地球惑星物理学を専攻して博士(理学)の学位を授与されています。

2021年、『八月の銀の雪』で第164回直木三十五賞候補となっています。

本作は5編からなる、科学の要素を交えた短編小説集です。

表題作の他、「海へ還る日」「アルノーと檸檬」「玻璃を拾う」「十万年の西風」の五編が収められています。


第1話 八月の銀の雪

主人公の堀川は、人見知りで、就職活動も上手くいかずに鬱々と日々を過ごしていました。

彼は、いつも行くコンビニエンスストアで、ベトナム人女性アルバイトのグエンを見かけます。

彼女は、要領が悪く、いつも店主に怒られている、使えないコンビニ店員でした。

堀川は、段ボールで作るロボットと、それを制御するプログラミングだけを趣味としていました。

ある日グエンが、堀川の友人の清田に、イートインスペースで、グエンが無くしたものを返してくれと絡んでいたことから彼女と言葉を交わすようになりました。

清田は怪しげな仮想通貨のアフィリエーター、所謂マルチ商法、ネットワークビジネスに関わっていました。

堀川は、清田から、彼が顧客と話している間、ただ横に座っているだけで1万円を出すという話に乗り、そのアルバイトをするようになります。

彼女から、無くしたものは論文だと聞き、彼女がベトナムの名門ハノイ国家大学を卒業し、国費奨学生として明都大学大学院博士課程の1年生、所属は理学部地震研究所であることがわかりました。

グエンは、服飾の専門学校へ入る為に、借金をして、グエンの後から日本にやってきた妹スワンのために、コンビニでアルバイトとして働いていました。

堀川は、リュックの底に4つ折りの紙を見つけますが、それは、清田が堀田に仮想通貨ビジネスの説明をしたときの紙でした。

それは、グエンが探していた論文の1ページで、堀川は彼女に返します。

グエンは堀川に、地球の地殻やコア、コアの中の内核などの話をします。

堀川は、グエンから、地球の内核に銀色の雪が降る仮設を聞きます。

それは、鉄の結晶の小さなかけらで、外核の底で鉄が凍って生まれ、内核の表面に落ちていき、高さ百メートルもある銀色の森、樹枝状に伸びた鉄の結晶に覆われていると言うのでした。


第2話 海へ還る日

ある日、主人公であるシングルマザーの「わたし」こと野村は、一人娘の果穂を連れて外出します。

わたしは、自分の人生を“当たっていない”人生であると思っていました。

そして、娘の果穂に何もしてやることができないと思っていました。

電車の中でぐずった娘を、たまたま近くにいた親切なお婆さんが、持っていた折り紙のクジラであやしてくれました。

電車を降りて、娘がわたしの手を引いて歩き回るままに、イルカやクジラの大きな絵が展示されている催事場に足を踏み入れます。

そこで、先ほど電車の中で娘に親切にしてくれたお婆さんに出会いました。

お婆さんは、国立自然史博物館の動物研究部(委託)に勤める宮下和恵という生物の細密画を描く専門家でした。

宮下の描く生物画は、研究者にも認められていて、動物図鑑にも掲載されていました。

わたしは、宮下からクジラなどの生態の話を聞き、大海原をゆったりと遊弋する巨大なクジラの姿を想像します。

宮下は、かつてこの仕事を始めるまでは、何でもない普通の主婦であったと、わたしに話します。

そして生物画を描くのが仕事だという宮下から、私たち母子に絵のモデルになってくれるように頼まれました。

そのことを通じて、わたしはそれまでの自分の意識が次第に変わっていくのを感じるのでした。


第3話 アルノーと檸檬

主人公は、しがない中年独身男の園田正樹、アパートの住人の立ち退き交渉を担当していました。

彼は、酒とかけ事に溺れた、だらしない毎日を送っていました。

ある日、園田正樹は、立ち退き対象の白粉婆こと加藤寿美江の部屋に立ち寄ります。

そして、彼女が立ち退かない理由が迷い込んできたハトにあることを知りました。

そのハトには脚環がついていて、飼い主が存在すると思われました。

脚環には、「アルノー19」と読める文字がありました。

加藤寿美江が急病で入院することになり、園田正樹は加藤寿美江が退院するまで、ハトの世話をするように頼まれました。

園田正樹は、上司から早急に迷いハトの持ち主を探し出して返すか、さもなくばハトを殺してしまえと厳命されます。

園田正樹は、レース鳩や伝書鳩の協会に出かけて行って、「アルノー19」について調べました。

その結果、「アルノー19」はかつて新聞社が通信用として飼育されていた、由緒正しい血統を受け継ぐ伝書鳩であることが分かりました。

その協会を通じて、鳩写真家の男と連絡がつき、新聞社が報道通信用の鳩を廃止した後、残った鳩たちを引き取った飼育担当の男の存在を知ります。

帰るべく家を失い、今は加藤寿美江が用意した檸檬の空箱を巣としている「アルノー19」の世話をしながら、園田正樹は、かつて実家の檸檬園芸農家を継ぐことを拒んで、両親と半ば喧嘩別れのようにして都会に出てきた自分の境遇を重ね合わせます。

ある日、園田正樹は「アルノー19」が毎日ベランダから飛び立ち、ある決まった時間になると、戻ってくることに気づきました。

「アルノー19」が飛翔して戻ってくる方向を見ると、隣接する巨大な高層マンションがありました。

園田正樹は高層マンションが立つ前、そこに何があったのか調べて回ると、近所の住人から、かつてその辺りに住んでいた、多くの鳩を飼っていた老人のことを耳にしました。

老人は既に亡くなり、住んでいた家は跡形もなく、その上に高層マンションが建っていました。

「アルノー19」は迷い鳩ではなく、かつての飼い主の元へ帰ってきていたのでした。

加藤寿美江が無時に退院してきて、愛おしそうに鳩を呼ぶ姿を見ながら、園田正樹は老いた親の元へ帰ろうと思うのでした。


第4話 玻璃を拾う

主人公は30代の今風の独身女性である吉見瞳子です。

彼女は、自分のSNSに投降した写真で迷惑をこうむったと「休眠胞子」と名乗る人物からクレームをつけられていました。

その写真は親友の女友達である奈津が送ってきたものでした。

写真の出所を辿ると、奈津の母親を通じて従兄弟に当たる男が撮ったものであることが分かりました。

彼女は、奈津と共にその人物に会うことになりました。

この短編は、「珪藻アート」がテーマとなっている作品です。

植物プランクトンの一種である珪藻の殻は、ガラスの主成分であるケイ酸塩からできており、タイトルの「玻璃」という言葉も“ガラス”を意味しています。

その0.1ミリにも満たない様々な形、色合いを持つ珪藻の殻を並べてデザインや絵にしたものを「珪藻アート」と呼んでいます。

話の発端の写真は、男が、病弱であった母親に送った「珪藻アート」でした。

男は不愛想ながらも、大学院の研究室でこの珪藻を研究していました。

彼女は、最初は男に反発を覚えながらも、淡々として、珪藻のことについて語る男の姿に、彼女を振って女性新入社員と結婚した同僚の男とは異なる、清流の静謐のような印象を感じるようになります。


第5話 十万年の西風

主人公の辰郎は、福島へ車で向かう途中、北茨城市の北端にある「長浜海岸」で車を停めました。

砂浜で、凧を揚げている初老の男の姿を見かけました。

男は、気象観測用の凧を揚げている気象学の元研究者だった滝口でした。

辰郎は眺めているうちに、男と言葉を交わし合います

辰郎は、他の土地で原発関係の下請け会社に勤めていました。

しかし、上司から不都合な事実の隠蔽を指示されたことからその仕事を辞めました。

そして、あらたに福島原発の廃炉の仕事を探そうとしていた矢先、福島へいく途中でたまたま「長浜海岸」で停まったのでした。

福島原発事故は、あってはならない事故が起きた現場でした。

辰郎は、その使用済核燃料の放射線レベルが原料となったウラン鉱石と同程度になるまでに十万年かかるという事実を想い、語るならば十万年後の空とか風とかの話がいいと言います。

滝口はその風すらも兵器とされた事実があると話し始めます。

それは、ジェット気流に乗せた風船爆弾の話でした。

風船爆弾は、敗戦が濃厚であった軍部が、最後のあがきで作り上げた稚拙な兵器であり、実際に米国に向けて放たれた約9,000個中、米国に到達した数は僅か300個で、そのほとんどは捗々しい成果が無かったと言われています。

滝口はそれは違うと言います。

ジェット気流を初めて発見したのは日本であり、気象現象を兵器として使ったのは日本軍が初めてでした。

当時、軍部は、風船爆弾に細菌兵器を搭載する計画を極秘に進めており、もしそれが実行されていたら、恐ろしい惨事となっていたと言います。

戦時中、気象専門家であった滝口の父親は、軍部に徴用され、風船爆弾の放球作業に携わっていましたが、誤爆事故で亡くなっていました。

滝口が揚げていた凧には、風を二度と戦争に利用しないという願いと、亡き父親を偲び弔う鎮魂の意味がありました。